事例 しけ絹
松井機業は富山県南砺市城端地区にある、明治10年創業の歴史ある企業。現在は日本で唯一、松井機業だけが「しけ絹(城端絹)」と呼ばれる織物を製造しています。通常は、一頭の蚕が一つの繭をつくります。しけ絹は2頭の蚕が力を合わせて一つの繭をつくるという希少なつくり方。この製法だと、一つとして均一な太さのものがないランダムな節が出るのが特徴です。このシルクを和紙に貼って絹地の壁紙をつくられていましたが、近年ではニーズが激減して、斜陽産業となっている状態でした。そんな中、5代目社長の娘さんである松井紀子さんが、奮闘するお父さんの気持ちに応えて、東京での会社員を辞め、家業である会社の6代目として継ぐ決意をされたのが2010年頃のことでした。
元々、紀子さんとは東京にいた頃からの友人でした。当時、僕のデザインスタジオでは、建築やインテリアデザインに携わる仕事を多くしていたので、伝統産業であるシルクの織物を内装に使えないかという話は聞いていたんです。
富山県はデザイン振興に力を入れていて、富山のデザインセンターは全国的にも有名です。いざ、紀子さんが実家に帰って家を継ぐとなった時、まずはそこに相談してみるといいのではないかと伝えたところ、直ぐに紀子さんがお父様に連絡をされ、その日の内にお父様が富山デザインセンターへ行かれたということでした。その後、僕が大学教員の職に就いたタイミングで、たまたま海外展開を視野に入れた助成金が取れたので、まずは展示会に出て、様々な人に興味を持って見てもらえるようなものを作りたいという相談を受けました。それならばと、正式に受託研究として受けることになり、プロジェクトがスタートしました。
しけ絹の魅力を世の中に伝えるために、どうしたらいいか、5代目の社長と紀子さんと、打ち合わせを重ねていきました。他社を巻き込むと、制約もでるし費用もかかります。そこで、極力手を加えすぎず、自社だけでやれるものをつくることにしました。そうして僕が提案したのが、日本の文化を視覚的に現しつつ展示会の巡回にも有効な、カラフルでランダムにしけ絹を貼った障子状の屏風です。これにより、それまで展示会に出展してもなかなかブースに立ち寄ってもらえなかったものが、売り物でない商材であるその障子は買うことができるのか?というくらいの反応があったとのことです。
そして、新たな展示会用の商材を考えるにあたって、別の形でコンパクトに納まり巡回しやすいものとして、3分割にできる環状のパイプが細く浮いて見えるような存在感のない構造体を製作し、そのリングに1本づつ違った色味のグラデーションがかったシンプルなタペストリーをデザインしました。
開発したものは、JFWジャパンクリエーション、IFFTインテリアライフスタイルリビングなどの展示会に出展しました。物を販売するために出展するというより、松井機業として何ができるかを、タペストリーを通して表明するための展示という意義です。展示会はかなり盛況で、メディアの方やブランドブロデューサーなど、たくさんの方にしけ絹と、それを製造する松井機業のことを知っていただく機会となりました。この出展をきっかけに、取材依頼がきたり、別の展示会に呼ばれたり、または百貨店の企画展への出展や、高級ホテルへの展示など、様々な形で企業活動が広がって行くことになります。実際、「ことりっぷ」という旅の情報誌の表紙にタペストリーの画像が掲載されたり、富山県美術館や東京日本橋の富山県アンテナショップの什器にも採用されました。新幹線が長野から金沢まで延伸され、北陸新幹線開業記念の日本橋三越で開催された北陸展では、メインブースに採用して頂きました。
展示会出展以降は、松井機業に対して意見をくださる方や、一緒にお仕事したいという引き合いも増えました。紀子さんは非常に熱心な方なので、そういう意見全てに耳を傾けて勉強してこられたと思います。今ではオリジナルブランドを立ち上げ、自ら市場に打って出る活動もされていますが、僕が一番感銘を受けたのが、蚕のことを知ってもらうために土づくりから考えて養蚕を始められたこと。大変な手間暇がかかるため、全てのしけ絹をつくるわけではありませんが、その一部だけでも、地域のこども達がワークショップを通じて、本当にいいモノの質と手間隙を体験してもらう活動をされています。
衰退する産業に、ただ嘆くのではなく、そうかといって大量生産で安くものをつくり売るのではなく、デザイナーに頼り切りで本当に売れるのか分からない製品を展開していく訳でもなく、残すべき文化に対してどう価値を伝えていくかという方向に意識が変わったことは驚きましたし、この企業がどのように成長していくのか将来が非常に楽しみですよね。
僕が受託研究として関わったのは1年という短期間でしたが、その後も何かあると相談を受けたりする関係は続いています。僕のスタンスとしてはデザイナーと大学教員という2足の草鞋ですので、張り付いてデザイン製品を打ち出していくというよりは、お互い良い距離感を保ちつつ応援できたと思っています。だからこそ、松井機業さん自身で考え、色々な方とトライすることができたので、今の形になっているんですよね。
僕がやったことは、一番最初の部分だけ。一般の人に知ってもらう入口となるきっかけをつくったこと、いわゆる「認知」の部分です。仕事柄、伝統産業に関わることも多いのですが、最近では結構な確率で松井機業さんのことをご存じな方も多いんです。認知があって初めて、様々なチャンスにつながると思うので、そこに関わることができて良かったなと思います。
僕の立場としては、デザインスタジオのディレクター、研究者として大学教員(安田女子大学)という2つの面があります。活動拠点は東京と以前教員をしていた北海道、そして2020年に着任した広島です。これからは広島を中心に地元企業との協業も視野に入れて動いていこうと思っています。僕のスタンスとしては、どこの地域に行っても地場産業と関わりを持つということ。やはり地域に貢献していくことは使命だと思っています。
一般のデザイナーと、研究者としてのデザインの専門家は、結構立ち位置が変わってくるんです。研究者としての課題は、プロダクトでどう社会をよくできるかの視点が大きいですね。社会的な問題があるにも関わらず、ニーズに誰も気づいていない。けれどあったら絶対に良いもの、つまりシーズを発見して解決できるものをつくっていくことが、自分の役割だと思っています。そして、このような実践している姿勢を示し続けることが、学生への教育だと考えています。
トップ画像撮影:水野直樹写真事務所
デザイナーであるとともに大学教員としてデザインの研究者、プロダクトデザイナーでありながら空間デザイナー。このように、多角的に事物を視てあるべき方向を提案します。
広島市